2017年11月25日土曜日

持てるひと、持たぬひと

先ごろ11月13日をもって閉廊された「 ギャラリーmu-an 」は、
かつて長岡市にあった現代アートの画廊が
都市区画整備のあおりで閉廊せざるをえなくなった折、
その画廊に集っていた作家の方々が、新たな発表の場を求め、
苦心・奔走した中で誕生した場であったとのこと

作家たちとのつながりがあり、人望と芸術文化の才覚があり、かつ
提供できる敷地空間という場所を「持っていたひと」が、
思いよらなかった流れを引き受けて始まったギャラリーの歴史 …


その流れを
この度の私たちの経緯と照らして思うのは

私たちは「持たぬひと」だったから
引き受けることになったのだなぁ… ということ




主宰者であり建物の主である迪子さんは、
私たち以外にも、幾人もの方に
この場所を… とお声掛けをされたと思うのです

人脈があり人望も才覚も資産も、申しぶんない人たちが
たくさんおられたと思うのです

ただ、おそらくみなさん、既に自分の場所を「持っていた」
ということではないかと

先に縁のあった場所だったり
選びに選んだ場所だったり

そのひとにとっての特別な「場」との奇跡的な出逢いを、
みなさん既になさっていたので、お受けにならなかった…

それでまだ何も持たぬ、それを探していた私たちのもとに
巡ってきたのだなあ… と




これは、卑下しているのでもなんでもなく
ただ

何も持っていないことは
可能性を持っているということ

そのことをしみじみと感じるのです




資産も才覚も持ち合わせていない我々ですが
自らが担えることの可能性 を示された時に

選ぶか選ばないか、決断するかしないか

挑戦に踏み出すちから(というか無謀さ)だけは
持っているらしき亥年のふたり ( ̄ー ̄) (。-_-。) ドドドドド~~




「持っているひと」だからこそできることを成す尊さ
「持たないひと」だからこそできることを成す尊さ

きっと同じ

誰かの何かの役に立てますようにという願いと
人生の愉しみごとを
重ねることのできるしあわせ


今は「持つこと」の重圧感もいっぱいで、
いつかまた身軽な、「持たないひと」に、
戻るのだろうと思うけれど

それまでの日々が
どんなにかけがえのない、尊いものになるかということは
もう知っている




大切なものを受け継ぎながら
新たな灯りをともしていきます