かつて長岡市にあった現代アートの画廊が
都市区画整備のあおりで閉廊せざるをえなくなった折、
その画廊に集っていた作家の方々が、新たな発表の場を求め、
苦心・奔走した中で誕生した場であったとのこと
作家たちとのつながりがあり、人望と芸術文化の才覚があり、かつ
提供できる敷地空間という場所を「持っていたひと」が、
思いよらなかった流れを引き受けて始まったギャラリーの歴史 …
私たちは「持たぬひと」だったから
主宰者であり建物の主である迪子さんは、
私たち以外にも、幾人もの方に
この場所を… とお声掛けをされたと思うのです
私たち以外にも、幾人もの方に
この場所を… とお声掛けをされたと思うのです
人脈があり人望も才覚も資産も、申しぶんない人たちが
たくさんおられたと思うのです
ただ、おそらくみなさん、既に自分の場所を「持っていた」
ということではないかと
先に縁のあった場所だったり
選びに選んだ場所だったり
そのひとにとっての特別な「場」との奇跡的な出逢いを、
みなさん既になさっていたので、お受けにならなかった…
それでまだ何も持たぬ、それを探していた私たちのもとに
巡ってきたのだなあ… と
これは、卑下しているのでもなんでもなく
ただ
ただ
何も持っていないことは
可能性を持っているということ
資産も才覚も持ち合わせていない我々ですが
自らが担えることの可能性 を示された時に
選ぶか選ばないか、決断するかしないか
挑戦に踏み出すちから(というか無謀さ)だけは
「持っているひと」だからこそできることを成す尊さ
「持たないひと」だからこそできることを成す尊さ
きっと同じ
誰かの何かの役に立てますようにという願いと
人生の愉しみごとを
重ねることのできるしあわせ
今は「持つこと」の重圧感もいっぱいで、
いつかまた身軽な、「持たないひと」に、
戻るのだろうと思うけれど
それまでの日々が
どんなにかけがえのない、尊いものになるかということは
もう知っている
今は「持つこと」の重圧感もいっぱいで、
いつかまた身軽な、「持たないひと」に、
戻るのだろうと思うけれど
それまでの日々が
どんなにかけがえのない、尊いものになるかということは
もう知っている
大切なものを受け継ぎながら
新たな灯りをともしていきます